35年前の世界旅行―日本へ高まる風圧と期待

スイス航空が1位

新年明けましておめでとうございます。皆様にとって幸せな1年になりますよう祈念いたしますとともに、今年も本コーナーをご厚誼いただきたくよろしくお願い申し上げます。

私は、今から35年前、1982年1月27日から2月24日までの約1か月間、国際的なエコノミストで、上司(恩師)の大来佐武郎会長(内外政策研究会、前月まで鈴木内閣の対外経済担当政府代表、その前が第2次大平内閣の外務大臣を歴任等)のカバン持ち兼アシスタントとして、スイス(ダボス)、オーストリア(ザルツブルク、ウィーン)、イギリス(ロンドン)、アメリカ(マイアミ)、パナマ(パナマシティー)、アメリカ(ニューヨーク、ワシントン)、ブラジル(ブラジリア、サンパウロ)、アルゼンチン(ブエノスアイレス)、ブラジル(リオデジャネイロ)を訪問、大来会長の国際会議出席、政府要人との会談、講演などに同行する大変貴重な体験をしました。

2人だけの大旅行であり、旅程をアレンジした旅行代理店からこれだけの長旅を1度に動く旅行者も少ないとのことで、公式スケジュールとは別に利用するすべての航空会社のサービス全般について感想(評価)がほしいとの依頼を受け、機内では別々にチェックリストを見ながらチェックインから機内サービス、到着ロビーでの荷物の受け取り、必要な場合の搭乗予約確認(リコンファーム)への対応など、多岐にわたる評価項目をチェックするという役目も務めました。

2人(私が1次記載、大来会長が確認するという分担)の評価結果は、利用した12の航空会社(ルフトハンザ、スイス、オーストリア、英国、アメリカン、ユナイテッド、ボリビア、パナマ、デルタ、バリグ・ブラジル、アルゼンチン、日本航空)の中で、スイス航空が1位になりました。特に、地上・機内スタッフ共に親切で手際が良く人材のクオリティがとても高いことがこのような結果になったと記憶しています。

また、スケジュールがタイトであり、空港から会談場所等へ直行することが多く、北半球と南半球を交互に移動するため、機内では冬服と夏服を化粧室で何度か着替えるというめったにない経験もすることになった次第です。

ダボス会議を皮切りに

約1か月の旅行の最初がダボス会議への出席でした。世界経済フォーラム(1971年設立)が毎年1月に主催する年次会合(ダボス会議)は、世界の政治、経済、社会、文化など幅広い分野のトップリーダーやジャーナリストの間でも注目される会議ですが(今年は1月17日から20日まで開催予定)、当時(1970年代~80年代初め)は、日本からの参加者が少なく、わざわざフォーラム創設者のクラウス・シュワブ理事長が大来会長のオフィスまで訪ねて来られ、是非会議に参加してほしいとの招待があり、1982年1月の年次会合に出席することになりました。

スイス・アルプスのリゾート地で開催される年次会合には、フォーラムの会員企業(数百社)のCEOのほか、選出された政治家、学界、宗教指導者、メディアの代表者が一堂に会し、招待者のみが参加できることになっています。

1982年(第12回)年次会合は、初日の歓迎行事(シュワブ理事長の挨拶、フォーラム議長のヒース元イギリス首相の開会演説、レーガン・アメリカ大統領のビデオ挨拶)のあと、最初の全体セッションは、「世界経済の課題と展望」がテーマでパネル討論が開催されました。世界から、レーモン・バール前フランス首相、アメリカ・ペンシルベニア大学のローレンス・クライン教授(1980年ノーベル経済学賞受賞)と大来会長の3人が講演者として登壇し、それぞれ30分ほど講演を行い、ヒース議長の司会のもとに出席者の質問に答えるかたちで活発な意見の開陳が行われました。

クライン教授は、グラフを示しながら、世界経済は82年後半からゆるやかな上昇期に入ること、アメリカ経済は83年に4%程度の成長が予想されることなど、比較的楽観的な展望を行いました。
バール前首相は、ヨーロッパ経済が深刻な構造的不況に陥っており、短期的な回復は困難であり、経営者の奮起が必要である、と述べました。

大来会長は、日本経済がこの20年間に世界経済の中の比重を3%から10%に高め、第2次オイルショックを乗り切り、半面、欧米との貿易摩擦を強めている現状を説明し、同時に、日本は世界の不況の中で繁栄の孤島ではありえず、世界経済の改善のために日本の持つ力を活用せねばならなくなっている。日本の経済社会は特異だとする見方もあるが、日本は明治以来西欧の発展に学び、現在では同質的な面のほうがむしろ多いと見るべきだ。日本は諸外国と民間企業どうしの協力を進め、利益を分かち合い、また食糧・エネルギー・森林・インフラストラクチャー(基幹的公共施設)建設などの分野でとくに第3世界の発展に貢献することがこれからの役割である、と述べました。

これに対して、聴衆から大来会長に数多くの質問が出されました。例えば、日本は輸出を伸ばすばかりではないか、日本の防衛はアメリカの納税者に依存しているのではないか、ソ連の脅威をどう考えているのか、日本の経済成長を支えてきた要因が今後は弱まるのか、そうでないのか、等々。それぞれの質問に丁寧に答えられた印象であり、討論後、数多くの外国人から日本の考え方をよく理解できたというコメントをもらった、との話がありました。

私が驚いたのは、宿泊ホテルからコングレス会場まで歩いて10分ほどの距離でしたが、昼間にも係わらず、私と同世代の多くの青年がゲームセンターやバーなどで遊んでおり、聞いてみると多くの国で失業率が20%を超え、ヨーロッパ経済の不況の一端を垣間見たことを思い出します。

1つのエピソード

成田空港からアンカレッジ、フランクフルト経由でダボスの最寄り空港(チューリッヒ国際空港)に到着すると、ダボス会議事務局より出迎えのドライバーが来ていました。彼が持つボードには、大来会長とクライン教授の名前が書かれており、BMWの車に案内され後部座席に2人が乗り込み、私は助手席に同乗しました。チューリッヒ国際空港からダボスまではアウトバーンを利用し車で2時間ほどの距離とのことでしたが、なんと時速140㎞で走行するため、事故らないかと肝を冷やしながらの車中時間でしたが、後部座席の2人は悠然として世界経済、アメリカ経済、日本経済などに談議を深められ、できればライブ中継でもしていたら、と思うほどの中身であったように記憶しています。

クライン教授は、1968年から91年までペンシルベニア大学ウォートン校で教鞭をとり、1980年にマクロ経済学及び計量経済学を飛躍的に発展させた功績でノーベル賞を受賞されています。博士はケインズ学派の主導者としても著名であり、トランプ・次期アメリカ大統領も同校の卒業生でもあります。このことは、ケインズ学派の系譜に連なる経済や経営学の思想・哲学に組みする可能性があり、大統領選挙後に表明したインフラへの大規模投資や積極的な雇用政策などは、こうした系譜によるものとも考えられなくもないと思います。

ダボス後、リオのカーニバルまで

ダボス会議のあと、オーストリアのザルツブルクでローマ・クラブとザルツブルク州知事の主催で開かれた「マイクロエレクトロニクスと社会」というシンポジウムに出席しました。ローマ・クラブは1972年にレポート「成長の限界」を発表後、特にヨーロッパの知識層から大きな反響があり、その後ヨーロッパを中心に世界各国で将来を見通したインパクトの強いテーマについて研究・議論等を深め、世界を啓蒙する活動に積極的でした。

ザルツブルクでのシンポジウム後、鉄道でウィーンへ移動し、ローマ・クラブ東西会議に出席しました。当時は、東西冷戦の最中で、レーガン大統領になってより緊張が増しており、米ソ首脳による大陸間弾道ミサイル削減など緊張緩和交渉のスケジュールもなかなか進まない状況にありました。そうした中、ローマ・クラブが仲介となりウィーン近郊の山荘(オーストリア政府提供)にて、ソ連関係者(国家科学技術委員会幹部等)とローマ・クラブ関係者(大来会長も常任委員の1人)が非公式会議を開き、東西両陣営に対して一定の情報を共有する役目も果たしていました。

ウィーンからロンドン経由(半日滞在、金融界幹部ら等との会合出席後)、パナマに飛ぶ途中、マイアミでカーター政権時代のアスキュー通商代表と面会し、夕食をとりながら最近の日米貿易摩擦問題などについて意見交換をしました。そして、パナマに飛ぶボリビア航空のフライトがキャンセルになり、急遽アメリカの航空会社に乗り換え、パナマに無事到着、空港から大統領官邸へ直行するという強行スケジュールになりました。

パナマでは、ロヨ大統領の昼食会に招かれ、パナマ運河上空及び第2運河予定地ルートといわれる地域を軍用ヘリから視察しました。また、大西洋岸のコロン自由貿易地域を視察し、ガルシア総裁の説明を聞きましたが、パナマの地理的な位置を利用し、中南米、カリブ海における通商の拠点として商業的取引に加えて加工・製造分野にも進出する構想を持っており、コロン拡張について日本の協力を一層期待する、との意向が示されました。

パナマのあと、ニューヨークで「世界経済における日米関係」と題して講演し、夜ワシントンに入りました。翌朝、マクナマラ前世銀総裁、ブラジルのバチスタ・リオドーセ社長(ブラジル前鉱物・エネルギー大臣)、大来会長の3人で世界開発問題、特に資源開発とそれに伴う交通・インフラストラクチャー建設等を話し合いました。

その後、世銀本部を訪ね、クローセン総裁、バウム副総裁、バチスタ社長、大来会長の4人でワーキングランチをとりながら、主にアマゾン開発、南米の農産物増産、パナマ運河、世界経済の動向等について意見交換を行いました。

ワシントンからブラジルへ飛び、ブラジリアでの国際食糧政策研究所の理事会に出席したほか、デルフィン・ネット企画大臣らと会談し、さらにサンパウロ大学の理事会で食糧政策などの討議に参加しました。大学からサンパウロ市内への帰路、車中から見た大平原に沈む夕陽がとても美しく大変感激したことを思い出します。

サンパウロのあと、ブエノスアイレスに飛び、アルゼンチンでは、マルチネス・デ・オス元経済大臣らと懇談しました。また、アルゼンチン外交評議会の昼食会で経済発展についてスピーチを行いましたが、アルゼンチン経済の活性化をはかるためには何をなすべきか、日本の経験がどのような点で参考になるか、などについて活発な質問がありました。

2時間ほど自由な時間ができたこともあり、市内見物などどこかへ出かけてはどうかとの話になり、1人で市内の街中とラプラタ川の見物に出かけました。かつて、ヨーロッパ(スペイン、イギリス等)との交流が盛んであったことを彷彿させる重厚な建築物や道路空間(構造)になっており、近世に繁栄した時代の様子をうかがわせる風格が漂っていました。また、ラプラタ川は向こう岸を見ることができない、まさに海のような大河であり、スケールの大きさに驚嘆した次第です。

カーニバル見物

ブエノスアイレスまでの公式スケジュールを終えて、日本への帰途に向かう途中、幸運にもリオのカーニバルを見物することができました。それも、一般には手に入らない前夜祭(舞踏会)の入場チケットを入手することができ、長旅の最後に生涯忘れることのできない世界最高のエンターテインメントを満喫することになりました。ワシントンでのバチスタ社長との討論の際に、丁度カーニバルのチケットを工面できるから、是非見て帰った方がいいとの勧めでした。

前夜祭は、翌日夕方からの本番を前に、世界中のハイエンド層が集まってくる舞踏会であり、入場料にプレミアムがついて、実際いくらで入場しているか現地の総領事館関係者でも正確にはわからないとのことでした。入場に際しては、正装もしくは仮装に限られ、1か月も旅行をしている私たち2人はそうした準備もなく、総領事館にお願いし、大来会長は海賊船の船長に扮し、私は身軽な浴衣姿で入場することになりました。会場内は、2,000人を超えるハイエンド層が入場し、オリビア・ニュートン・ジョンをはじめその年に最もふさわしい世界のエンターテインナーが登場し、歌や踊りが繰り広げられ大変な熱狂ぶりでした。私が、たまたま浴衣で阿波踊りを踊っていたところ、地元のラジオ局の目にとまり短いインタビューを受けることになりました。

カーニバルも阿波踊りも基本は2拍子のリズムであり、会場の音楽にたぶんうまく合っていたことと、普通は正装が大半の中で、あまりにも身軽な浴衣姿が目立っていたことが取材の対象になったものと回想しています。

翌日のカーニバル本番は、特設スタンド(約6万人収容)に腰かけ、夕方から翌朝まで踊り、練り歩くようですが、開始から暫くすると観客も興奮し、スタンドに立って踊り始めるため、じっと腰かけていることが困難なぐらいスタンドが揺れ、その様が対岸のリオデジャネイロ湾に投影され、大げさに言えば大地とリオ湾がまさに揺れているかのように感じるぐらいの迫力で、ブラジル人の年1度の興奮が伝わってくる大祭典と思いました。

35年前の教訓―これからの日本へ

リオからニューヨーク経由で帰国しましたが、機中で会長と今回の世界旅行の印象について懇談し、概ね次のようなことを振り返りました。

  • オイルショックを乗り越えた日本産業の増大する国際的競争力、これに対する欧米諸国のいらだちが見られる。
  • 他方、発展途上国あるいは先進国の有識者から聞かれる世界経済の発展に対する日本の積極的役割への期待が強く印象づけられた。
  • 問題は、これに対して日本がいかに対応するかであり、貿易摩擦についても、日米・日欧間で論議を重ねるだけでは、工業技術の発展を続ける日本がつねに弁解者の立場におかれる。
  • むしろ視点を変えて、日本の持つ巨大な経済力を世界経済の発展に積極的に役立て、多数の国々の支持を得た立場で、国際経済問題に対応することが、貿易摩擦の袋小路から抜け出るための賢明な道となるのではなかろうか。

この旅行は、今から35年前に経験したことが述べられていますが、その後の日本経済は、1985年9月のG5によるプラザ合意(ドル高是正等)を経て、バブル期を謳歌し、やがてバブル崩壊、失われた20年の長期経済低迷に陥り、今では世界最大の借金を背負う財政状況になっています。

80年代のレーガン政権下でのアメリカの高金利政策が世界中のマネーをアメリカに集中させ、ドル高へと急伸したことが、プラザ合意に至り、日本のマネーが中国や東南アジアへ直接投資として流出し、さらに海外市場を指向した企業の工場移転などもあり、アジア各国の経済発展に貢献する一方で、日本の産業競争力の空洞化や衰退につながる起点にもなったと考えられます。

トランプ新政権の経済政策や対日政策は、今月以降、徐々に明らかになると想定されますが、レーガノミクス及び80年代後半以降の日本経済運営の教訓(反省)を踏まえ、未来への戦略的な備えとして、日本国内の富の源泉(基盤)を高める新しい産業の創造と育成に資する政府、企業、家計(消費者)の賢い投資がより重要になってくると思っています。

<参考文献>
・大来佐武郎著『大来レポート―日本へ高まる風圧と期待』(1984、国際開発ジャーナル社)